優れた人物眼をもつ軍師!荀彧とは!?

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さて、今回は曹操に数多くの名将を推薦してきた名軍師をご紹介します。一緒に学んで、人生のヒントを発見していきましょう!!

三国志シリーズより

「大業を成すためには、優れた人物が必要不可欠ですぞ。」

英雄名

荀彧(じゅんいく) 字:文若(ぶんじゃく)

生 涯

荀彧の祖父は、清廉な性格で「神君」の異名を持つ荀淑(じゅんしゅく)、その子供達も「八龍」と称されるほど優秀であり、父は荀淑の次男:荀緄といい、名門の出身でございます。

荀彧の従子(ただし、荀彧より年長)には同じく曹操に仕えた荀攸(じゅんゆう)がおります。

189年、董卓が献帝を帝位につけた後に推挙され、宮中の紙・墨・筆などの管理する仕事に就きますが、董卓の乱が起こると転職を願い出て、そのまま官を捨てて帰郷しました。荀彧は戦乱の到来を予測して、故郷から離れることを長老らに提案・説明しましたが、彼らは故郷を離れることをしぶっていました。ちょうどその頃、同郷の州の長官が騎兵を派遣して荀彧を迎えに来たので、その招きを受けて自分の一族のみを連れて冀州へと逃れました。まもなく故郷は荀彧の予測通り董卓の軍勢が襲来して、多大な犠牲が出てしまうのでした。

荀彧たちが冀州へ辿り着いたときには、袁紹の勢力が台頭しており、兄弟の荀諶、それに同郷の者達は袁紹に仕え、荀彧も客人待遇で迎えられましたが、荀彧は袁紹を見て、大業を成す事は出来ない人物だと判断しました。

191年、曹操が東郡におり、荀彧は袁紹の元を去り曹操の元に赴きました。荀彧を迎えた曹操は「お主は、わが子房(前漢の名軍師の字)である」と大いに喜んだといいます。それに感動した荀彧は、29歳で曹操に仕えることとなりました。

董卓軍は荀彧の予測通り各地を襲撃して、多くの者が殺されました。曹操に董卓への対策を問われた荀彧は、董卓が自滅することを予言。後にそれは事実となって曹操の前に表れます。

193年に曹操は牧となりましたが、荀彧はその補佐役として常に曹操と一緒にいました。

194年、曹操が前年に引き続き徐州を侵攻した際、荀彧は曹操の根拠地である兗州の留守を任されていましたが、曹操の盟友であったはずの陳留太守とその従事が天下無双の豪傑:呂布を引き込んで謀叛を起こそうとしていました。荀彧の守る城には「呂布が曹操の援軍にやって来たので城を開けてくれ」と使者がやってきましたが、荀彧はその裏に謀反があることを見破り、別働隊を呼び寄せ合流。呼び寄せた軍に反乱分子を一掃させて反乱の芽を摘むと、さらに優れた外交術を駆使して、曹操陣営に残った三城を曹操の帰還まで守り抜きました。曹操が帰還すると、荀彧は自分の功績ではなく味方の功績を称えたといいます。

その後、呂布を攻めきれず悩んでいる曹操に対して荀彧は、「光武帝が天下を取れたのは自分の本拠地をきちんと治めたからです。まずは、我らの本拠地である兗州をしっかり治めるべきです」と助言、さらに徐州が簡単に攻め取れない理由と呂布の軍は兵糧さえあれば勝つことができる状況にあると述べました。曹操はその助言を受け入れ、兵糧が集まると再び呂布と戦い見事に打ち破ることに成功しました。

196年、献帝が長安を脱出して洛陽に逃れると、荀彧は曹操に対してこれを迎え入れるべきだと助言し、曹操は献帝を迎え入れました。この功績により曹操は大将軍となりました。

曹操のために荀彧は、名士であるその人脈や優れた人物眼を駆使して、数々の名将たちの発掘(同郡の荀攸・荀悦・鍾繇・戯志才・郭嘉、他郡の司馬懿・王朗等々ほか多数)し推挙していきました。登用した人材で大臣になる者は十数名、大成しなかった者は任務のときに戦死・病死した者ぐらいであったといわれます。

曹操は数々の群雄達と戦っていましたが、とりわけ袁紹の存在は脅威でした。

198年、曹操は張繍と呂布を破り、袁紹と本格的に敵対することとなります。孔融が袁紹陣営の人材の豊富さからくる強さを言うのに対して、荀彧は袁紹陣営の人物それぞれの弱点を的確に説明し、その弱点が袁紹軍を内部から崩壊させることになると予言しました。

200年、官渡の戦いの際、荀彧の予言はまた当たります。袁紹軍で蛮勇を持つといわれた猛将2人は荀攸の策にかかって殺され、君主に反抗的な軍師は袁紹に気に入られずに本戦前に投獄、貪欲な心を持つ武将は形成が不利になるや情報を持って曹操軍に投降してきました。・・・どんだけ当たるのさ!?

荀彧自身はその戦いにおいて留守を勤め、後方支援を行っていましたが、途中で曹操が弱気になり、撤退すべきかと荀彧に相談してくることがありました。荀彧はこれに対して、退却したい曹操の心を汲み取りながらもそれに反対し、必ず袁紹軍は内部から分裂し、チャンスが来ますと励ましたと伝わります。それも予想通りとなり、曹操は奇襲をかけて袁紹軍を敗走させました。そして曹操は、207年までには袁家を滅ぼし、中原の覇者として君臨することとなりました。

こうした功績から、荀彧は加増され、荀彧の子の荀惲には曹操の娘が嫁ぎました。曹操の荀彧に対する待遇は手厚いものでしたが、荀彧はその清廉さから、財産を蓄えるようなことはなく、親類や縁者に配って歩き、家には余財は一切なかったといわれています。

更には、出世に対する欲もなく、曹操は荀彧をもっと上の役職に推薦していましたが、それを良しとせず頑なに断ったとされております。

208年、曹操は荊州の劉表を討伐しようとして、どのような策を用いるべきか荀彧に尋ねました。 荀彧は「現在、中原は我らによって平定されており、南方は追い詰められております。 公然と出兵する一方で、間道伝いに軽装の兵を進めて敵の不意を狙うのがよいでしょう」と助言します。 かくして曹操は出征、タイミングよく劉表が病死しました。 曹操は荀彧の助言の通りに軍を進ませると、劉表の子は州をあげて曹操の軍を迎えて降伏しました。

順調に勢力を広げる曹操軍でありましたが、その後赤壁の戦いで曹操は劉備と孫権の連合軍の前に敗れて退却を余儀なくされます。この敗北は予測できんかったんか。。。

212年、曹操は部下から爵位を進められて魏公の官職となるべく準備を進めていきました。曹操が魏公となれば、実質漢王朝を凌ぐ力をもつことになります。

この様な動きに対し荀彧は、「曹操様が義兵を起こしたのは、本来であれば朝廷を救い、 国家を安定させる為であり、真心からの忠誠を保持し、偽りのない謙譲さを守り通してこられた、 君子は人を愛する場合は利益を用いないもので、そのような事をするのはよろしくない。」と、断固反対の姿勢をとりました。しかし曹操は次第に、魏公を受ける意思を明らかにしていきます。

212年、荀彧は曹操が孫権征伐に軍を動かしている最中に病に倒れ、そのまま死去しました。ときに50歳でございました。

エピソード

・荀彧が4歳の頃、権勢を振るっていた宦官の娘と婚姻が決まったとされています。 ・・・え、早すぎじゃない??時代を感じる。。。

・荀彧は若い頃から「王佐(王道を行なう君主を補佐する)才能がある」と称されていました。 実際、曹操の大業に貢献したわけですから、その言葉は、当たっていましたね。

・荀彧は常に中枢にいながら厳正な態度を保ったとされており、曹操は出征して都の外にいるときでさえ、軍事と国事に関する全ての事を荀彧に相談していたといわれております。

・主君である曹操が落ち込めば励まし、気弱になってはその心を汲み取りつつ助言するといった場面が多くあります。曹操もその助言をよく聞き入れ、度量の広さを持ってそれに答えています。

・その死に関しては諸説あり、中には病に伏せっていた荀彧の元に曹操から書簡が届き、その中身が空だったことを確認した荀彧は「お前は用済みだ。」と解釈し自殺したともいわれております。

三国志シリーズより

私 見

この記事を作成していて、この人の予想どれだけ当たるんだよ!預言者かよ!競馬やってよ!って思うほど頭がキレッキレです。こんなに的確な助言をくれる人が組織にいたら幸せでしょうね。曹操と抜群のコンビネーションを発揮してどんどん大業を成していくその姿は実に美しいです。

荀彧の長所は、

・優れた情報収集能力と観察眼・人物眼をもっていること。私欲もない。
・自分の主君(上司)にも、自分が正しいと思ったことについては、しっかりと意見できること。

短所は、

・保守的な面が強いのか、時代の変革を受け入れられない部分があること。
・無欲でありすぎるがゆえ、影響力をもつ役職に積極的ではないこと。

こんなところでしょうか。曹操との晩年のすれ違いについては、お互いに仕方ない部分もあったのかと予想しますが、とても残念に思います。最後まで信頼関係を持ち続けられれば、魏はもっと安定した長い政権を保てたのではないかと考えてしまいます。

さて、いかがだったでしょうか。何か人生のヒントはありましたか?

この記事を読んでくださった方に幸運が訪れますように!!

三国志シリーズより







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